葬祭カウンセラーにぴったりのドラマで2025年が明けました。
法要帰りのシーンで始まり、あの世にいるであろう故人との対話によって「ひとりでも、孤独ではない毎日」を着実に一歩一歩進めていくシーンで結ばれる、野木亜紀子脚本×松たか子主演の新春特別ドラマ『スロウトレイン』。
じつはわが家では、同じ野木脚本の昨秋のドラマ『海に眠るダイヤモンド』(「軍艦島」の通称で知られ世界遺産にもなっている端島を舞台に、1955年~70年代前半の端島と2018年の都心を往来するストーリー)を大晦日の深夜から元旦にかけて最終話まで一気見し、続けて『スロウトレイン』を観るという、野木ドラマラッシュの年明けとなりました。
ふたつのドラマを通して、「人生の秋(生きがい探し)」とどう向きあってゆけるのか、考察していきたいと思います。
葬祭を学ぶことは、
人生の目的をはっきりさせること
ふたつのドラマに共通していたのは、「ある日突然、ぷつりと消えた今生の人間関係」です。
『海に眠るダイヤモンド』では、婚約を告げる直前に切れた縁の先にあった真実が、何十年という時を経て、残された日記によって伝わります。「あの日、待ち合わせに来られなかった理由」を、もっと前に知ることができていたとしても、どうにもならなかった運命。長い長いときを隔て、すでに〝別の幸せ〟を築きあげたあとに受けとったのでなければ、きっとここまで輝くことのなかった奇遇。
それを、海の底で腐敗した植物が何千万年という長い時間をかけて「黒いダイヤモンド」へと変わることになぞらえ、人生という限られた時間の大半をかけて、〝かつて愛し合えたという事実〟を信じることができれば、たとえ現実には結ばれることがなかったとしても、人生はダイヤモンドのように輝く、ということが伝えられたと感じました。
最期の瞬間に光り輝くダイヤモンドを感じながら逝けること、をもしも人生の目的とするならば。
人生の〝閉じかた〟を先人から学ぶ、すなわち葬祭を学ぶということが、一番の近道ではないでしょうか。
続く新春スペシャルドラマ『スロウトレイン』でも、登場人物のひとり二階堂克己(リリー・フランキー)が「人生の閉じかた」に固執しつづけています。
「盆石」に象徴される
日本人がアートを通して向き合ってきた侘びと寂び
『スロウトレイン』では、3人きょうだいの両親と祖母が23年前に交通事故で一度に亡くなり、3人はそれぞれ違う年齢で抱えた喪失体験の影響を、職業や人間関係のなかで、右往左往しながら埋めてゆきます。
3人の周辺の登場人物も、ぶきっちょで魅力的な紆余曲折のエピソードをへて、ひとりで過ごす孤独、あるいは誰かとともに暮らしているのに感じる孤独について、吐き出していきます。
主人公が制作する書籍の題材となっている「盆石」(漆黒の盆の上に、石と白砂で描くアート)は、平成30年の間にほとんど語られることがなくなった「侘び寂び」という、日本ならではの美学を浮き上がらせます。
趣味で盆石に取り組む婦人たちが語る短いエピソード(作品と向き合っている間は無心になれる、といったような意味の)は、私たち日本人が古来から和歌や俳句に四季折々の自然を詠むことによって人生の妙(比較による落胆や怒りとは無縁の境地。すなわち縁空が「人生の秋」と呼ぶもの)を時々刻々に発見してきたことを思い起こさせてくれます。
身体をつくる「食」にかける手間暇
二女が釜山に開店する「出汁カフェ」のような店をはじめ、全編を通して手料理のシーンが多く登場します。こちらはアートで心を浄化してゆくのとは対極の、生きる肉体を育み維持する方面の話。それを誰と、どのように過ごしていくのか。
中華鍋は手入れに手間がかかる、と言っていた主人公が、テフロン加工のフライパンでは弟の作った味にならないのを認め、「やっぱ中華鍋か」と言うシーン。ひとりの大晦日に年越し蕎麦を1人前だけ買って、でも外食せず帰宅して食べる。亡き両親に宛てた手紙を朗読するシーン。
食――生きている世界が、あの世の人々と語らうことにより、孤独ではなくなる――。
去った人は、亡くなった人は、わたしたちを捨てたくて去ったのではない。
どうしようもない運命が、人と人とを隔ててしまうことがある。
家族であれ、恋人どうしであれ、仕事仲間であれ。一緒にいる間、言いたいことをぶつけ、逆に人知れず気を遣ったりと揺れ、ときには引導を渡し、また戻ったりもし。感情をやりとりしたという事実は、消えない。
誰かと本気で感情をやりとりしたというその記憶を、ひとつひとつ表情の違う駅を往くように積み上げていく。
『スロートレイン』の終盤の語りで、『MIU404』のアレ思い出しちゃった!
そんなわけで、怒涛の野木脚本ドラマ合宿で「人生の秋」を感じてみた2025年の年明けでした。