流れ作業のような葬式に、意味はあるのでしょうか?
- 2025/03/19
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先日、職場仲間の母堂が逝去し葬儀に出席しました。
会場に着くと受付カードに住所氏名を記載するよううながされ、受付にそのカードとお香典を出すと、会場内の座席に案内されました。
開始10分後には焼香がはじまり、荷物を持って焼香するよう言われ、それが終わると受付で渡された引換券を出して返礼品ともらい、もう出口でした。
故人をしのぶ言葉やら、どんな生きざまで、どのようにしてさいごを迎えられたのかなど、何も聞かずに会場をあとにしました。
私自身は故人と直接の面識もありませんでしたが、時間をかけて列席したのにあっけないなと思いましたし、ひとの葬儀に出たからには、なにかこう......もう少し納得できること(この人は、こんなふうに生涯をすごされたんだなというような)があってもいいように思えました。
こんな葬儀に、意味はあるんでしょうか?
回答者からの回答
お葬式をすること、そこに参列することには、重要な意味があります。
【キーワード】お葬式・葬儀・告別式・葬祭カウンセラー・説明責任
お葬式の進行が流れ作業的になってきたのは、1990年代に葬儀会館の普及に伴ってのことです。自宅でのお葬式が減り、専門施設を利用して葬式が施行されるようになりました。いわゆるセレモニーホールでのお葬式へと葬儀場所が大きく変わったのです。
そのため、式の進行手順も合理的に見直され、滞りなく手際よく進めることが「葬祭サービス」の技量として、評価の対象になりました。同時に火葬時間の設定があらかじめなされているので、時間的な制約の中で行うことが、式進行のなかで重要な要素となりました。
仏式葬儀では、読経時間などもそれらの都合に合わせる必要が出てきたために、儀礼的な要素よりもその時間的制約が最優先事項となって、『導師』としての的確な役割や使命が果たせなくなったと嘆かれる僧侶も多くいます。
さて、時世に合わせて「流れ作業的」な進行がパターン化されると、葬儀社自らがその安易な進行パターンを通例として違和感なく受け入れてしまいました。そこで本来の「葬儀」や「告別式」の意味や意義が失われました。
施行の「責任説明」がなされないまま現状に至り、これが形骸化の大きな要因になっています。同時に私たち自身も合理的で利便的、経済的な施行を優先させそれが風潮化しているのも現代のお葬式トレンドです。その結果、私たちは「お葬式」の価値を見失い、施行規模の萎縮、縮小化こそを正当な通念として浸透させています。
懸念されているように、故人を偲ぶという素朴な想いからは釈然としないものがあります。しかしながら、人の「死」には悲嘆の中で、通常は突発的、緊急的な対応が迫られるものです。加えて対外的な配慮も短時間で「滞りなく」進めなければなりません。形骸化してもなお前例を踏襲する「無難さ」に頼ることも事実です。そこにご質問のような、お仕着せの進行に疑義を持たれる感性は重要ですね。ただし形骸化した慣例がなぜ未だに受け継がれているのかということもあわせて考えてみる必要もあります。
私はそこに死生観を踏まえた日本的な基層文化の一面を見ています。
「葬祭カウンセラー」は、こういった現実に備えて、いろいろな考え方や知識を少しでも事前に得て、周りの人たちに振り分けて配慮ができるアドバイザーです。
これに対して葬祭業務の文化的な背景を研修していない業者が多すぎます。それらは葬祭業としてのプライドが自覚されていない葬儀社です。
これからはお葬式に参列するときに、葬儀社の演出や葬儀進行からその業務資質を推し量ってください。そういった視点から、葬儀社評価をなさることも良いかもしれません。
今後はキーワードの言葉の意味を理解していただくと、お葬式の意味がひも解いていけるのではないかと良いと思います。
2025/03/20
二村祐輔
日本葬祭アカデミー教務研究室