帰省中に、遺言相続や墓じまいの話を切り出せない本当の理由を葬祭カウンセラーが真剣に分析したら、2つの切り口が浮上



GWも終盤。重要な話が、また先延ばしに……

 帰省は、家族とすごす貴重な時間です。
 しかし、多くのかたから耳にするのは、墓じまいや相続、そして葬儀の準備といった大切な話題を「切り出しそびれてしまった」という問題です。

 葬祭カウンセラーとして日々相談に応じていると、

帰省しても、子どもがバタバタしていて、大人だけで話す時間がない

毎回夫に、「おとうさんとよく話して」とお願いしているのに、今回も遺言の話を切り出せずに終わった

 こんな言葉をよく耳にします。

 私たちはなぜ、これほど重要な話を避けてしまうのでしょう?
 直接的な原因と、根本原因。要因は2つあります。順に、説明いたします。

原因➊(直接の原因):みとり(※)に関する〝個別具体的な〟知識の不足

 ひとつは、葬祭に関する知識の不足や、相続発生時の事務処理の大変さを知らないことです。

 終活に熱心なかたの大半は、

「父の相続のとき苦労したから、母のときに備えて準備したい」
「おばが夫の相続で苦労したと言っていたから、両親のみとりのことを考えはじめた」

など、身近な人の苦労談から情報を集めはじめています。
   たしかに、身近な人が亡くなったあとの事務処理のたいへんさをあらかじめ知っていたら、家族に対して準備の必要性を伝え、真剣な話し合いを促すことはできるでしょう。

 でも、10年以上前から「終活」が話題になり、終活セミナーも各地で頻繁に開催されています。それなのに、いまだに葬儀や相続が終わってから「苦労をした」、「もっと早くから準備しておけばよかった」という声が減らないのはなぜなのでしょうか。

案件ごとに特殊事情があり、基礎知識だけでは役に立ちづらい

 行政書士として、遺言や相続などサポートをする仕事を始めてで17年になりますが(2024年現在)、じつはいまだに勉強、勉強の連続です。
 法制度は毎年のように変わりますし、ご家族の背景によって必要な手続きも大きく異なるからです。正直、「これなら7割の案件をカバーできる」というひな形のようなものは、遺言にも相続にもありません。毎回、状況に応じて制度チェックや文案の練り直しをしています。

 もちろん、信託銀行の遺言信託では銀行ごとにひな形が用意されており、資産内容と遺言者の個人情報、譲りたい相手の情報などを差し替えるだけですぐに公正証書遺言は作成できてしまいます。が、それでほんとうにご遺志が活かされるのかというと、残念ながら疑問です。

 以前、私のところで公正証書遺言を作成したあとで、知り合いの勧めで信託銀行での遺言のつくりなおしをしたかたがいらっしゃいました。信託銀行を出られたところから、私のところへ電話がありました。

「いま、人に言われて信託銀行で遺言をつくりなおしているんだが、物件の情報以外に何も聞かれない。あんたのところでつくったときは、もらう人が先に死んだら誰にとか、フゲン(付言:遺言の末尾に、その遺言内容にした理由を述べておく、手紙のような部分)だとか、いろいろ相談したと思うが、何も聞かれないんだが大丈夫だろうか」

と。このかたとは、もともとお墓選びの依頼で顧客になったので、各地のお墓を見学にまわる間も何回もご夫妻と食事をし、遺言のための面談も何度も重ねて、内容をつくっていました。信託銀行に百万円以上を支払って、予備的遺言(あげる予定のかたが先に亡くなったら、誰に遺すか)も付言もない、テンプレ通りの公正証書遺言に換えてしまわれたのです。

 昨今、たくさんの終活支援組織がありますが、大手であればあるほど、作業をテンプレ化して組織を大きくしているので、個別具体的な案件に時間をかけてとりくめる力が弱いともいえます。みとりの分野においては、大手組織は「つぶれない」という意味で信頼できるかもしれませんが、サービス内容がご遺志に添うかといえば疑問が残ります。

みとり:狭義では「臨終が迫ってから寄り添い看護すること」を指しますが、縁空では、遺言や葬儀の生前予約など生前の備えから死後の事務手続きまで、少しひろくとらえています。お釈迦さまが老病死のことを知って、生きている間の苦と向きあう最良の方法をお悟りになられたように、臨終前後のことをよく知ることは、どの世代のかたもよりよく生きられるようになる方法につながると考えているからです。流布している「終活」という言葉は〝自身の〟〝死後の事務手続き〟及びその準備を指しますが、〝ほかの誰かの〟みとりを考えることで人生の学びになる、というのが、縁空の提唱する〝みとり〟です。

終活の〝情報〟をいくら集めても、役に立たない ~案件は、個別に異なる~

 このように、信託会社という金融庁のお墨付きを得た大手組織の遺言専門部署でさえ、個別具体的な案件にたいする終活ノウハウは、ほとんど蓄積されていないのです。

 終活セミナーの多くは、葬祭会社や信託銀行、生前整理の会社、保険会社など、死に備える商品を販売する企業や団体が主催・共催しています。
 セミナーを主催する組織が大規模であればあるほど、ひとりひとりの悩み解決よりも商品販売のほうに重きが置かれる傾向が強くなることは否めません。もちろん別途相談料を払えば、個別相談に応じてくれる場合もありますが、傾聴してくれたあと「それでは遺言の作成が必須ですね」と、ひな形通りの信託銀行の公正証書遺言につないでくれるのが関の山です。


終活セミナーをいくつハシゴしても、
「いざというとき、どうしたらよいのか」もわからないままだし、
何から手をつけたらよいのかもわからない。

 こうおっしゃるかたが減らないのは、個別の背景をお話しされたうえでのご相談に、いたっていないからだと思います。

 つまり、信頼できそうな大手組織が主催する終活セミナーに何度出ても、自分のケースに何が必要か? というもっとも大事なことはわかりづらいのです。逆に、地元の小規模組織は、具体的な案件はよく知っているかもしれませんが、偏った情報ばかりでご自身のケースにうまく当てはまらない情報ばかりという結果になりそうです。

 親御さまやご自身がすでに終活にとりくんでいらっしゃるのに、せっかく長期休暇などで集った際に、なかなか〝その方面の話〟にならないとしたら。
 もしかしたら、得られた知識が「誰の場合にでもあてはまる表層的なこと」にすぎず、その膨大な情報のなかから「自分たちのケースで必要となるのは何なのか?」がつかみきれていないからかもしれません。

ポンとお金を出して短時間で得らえる情報ではなく、人生を通して費やすべきこと

 それでは、セミナーやネットから集めた膨大な情報、事例集、方法のなかから、「わが家のために必要なエッセンス」を抽出していくためには、何が必要なのでしょうか。

 それは、なにか商品を販売しようとしている終活相談員にたいしてではなく、あなたのことを本当に心配してくれたり、誰かの役に立つことなら無償でも情報提供をしてくれるような仲間をみつけ、具体的な背景を話しながら、何度も話を重ねてしていくことだと思います。

 そのためには、地域のボランティアやサロンなど、複数の場所へ顔を出してみるのもいいでしょう。肌に合う居場所をみつけたら、いっときお金を払って習うのではなく、その仲間たちと何年間も情報共有や意見交換を重ねることが重要と思います。

 戦前から高度経済成長前までのころは、自営業の家庭が6割でしたので(下図参照:総務省統計から、農業、漁業も自営業とカウントするとそうなります)、家庭のなか、あるいは町内の井戸端会議や菩提寺(お墓のある寺)の世話人会などが、そうした〝場〟になっていました。そもそも、地域でみとりの方法も決まっていたので、〝考えて、選ぶ〟必要などありませんでした。

自営業割合:総務省労働力調査「従業上の地位別就業者数_(自営業主,家族従業者,雇用者など)」から自営業主と家族従業者を足して総数で除した(著者作成)

 選ばなければならないいまの時代には、みとり、すなわち生き死にのことを、信頼して話すことができ、語らえる仲間を、めいめいが自ら見つけてゆかなければならないのです。

原因➋(根本原因):世代間で、人生観が共有されていない

 大事な話を切り出すことがなかなかできないもうひとつの要因は、「いかに生きるべきか? という人生観を共有していないこと」です。
 なにを唐突に大げさな…… と、お思いでしょうか?
 人生観なんてものは、文学者や芸術家が考えればいいことであって、庶民には関係がないのでしょうか。

 ほんの半世紀ほど前まで、大人は酒の席などで、人生観をよく語っていました。
 経営者でなくとも、まちの商店主や一介の主婦であっても、

「待ち合わせにだけは、遅れない」
「人を裏切るようなことだけは、しない」
「お金を誰かに貸すときは、返ってこなくてもいいという気持ちで貸す」

など、それぞれの人生訓を持っていたのではないでしょうか。
 そしてそれらの言葉はしばしば、〝家訓〟として祖父母や曾祖父母の代から語り継がれてきたポリシーだったかもしれません。

親子がポリシーを共有しなくなった背景

 戦後、社会の枠組みが大きく変わりました。
 家父長的で封建的な考えかたは、敗戦と同時に、「なくしたほうがいいもの」であるかのように叫ばれ、日本人は伝統の皮を脱ぎ捨ててきました。

 個性尊重の名のもと、親は子に生きかたを強いることをしない時代になりました。
 また、企業中心の社会となり、「家業を継ぐ」というのは限られた職種だけになりましたので、成人してからの仕事のやりかたや、業務上の倫理なども、親からではなく会社の上司や先輩から学ぶのが当たり前となりました。

民法が核家族を推奨したので、世代間でポリシーが受け継がれない

 ほとんどの家庭が核家族(結婚したら実家を出て世帯を分ける状態)になったのは、「嫁姑が同居するとうまくいかないから」だと考える人が多いかもしれません。それも、心情的にはあるのでしょうが、実際は企業中心社会となって、自営業の割合が激減したので、長男一家が親と同居する必要がなくなったというのが主要因と考えられます。

 そんな社会の変化につれて、家訓を語る家庭はすっかり少なくなりました。
 親子といっても、18歳前後で親が経済的に子を養っている間だけ同居しており、その後は独立して勤める会社も別々。
 つぎに親子が密に接するようになるのは、数十年後の病気で入院したときか、介護が始まってからになります。つまり、大人どうしとして、生きざまを語らったり、苦境に立たされたときにともに知恵を出しあって乗り越えたりという一体感は、いまのほとんどの家族には、ありません。
 これでは、親のみとりの準備といっても、子世代がなかなか口をさしはさむこともできません。
親世代のほうは、葬儀の生前予約から死後事務の依頼まで、「迷惑かけたくない」と言って、子や孫世代と相談することもなく〝最低限の〟〝できるだけお金のかからない方法で〟、決めていってしまうわけです。

まずは世代間で、〝どう生き抜いてきたのか〟という話を共有しよう

 これでいいのでしょうか?

 日本の経済成長を支えた世代が、当時の活気や意気込みについて、何も語らないまま去ってゆこうとしている――。
 これでは、日本経済が復調するはずもありません。

戦後の日本がどのようにして経済成長を遂げたのか。
その時代の生活の変化は、どんなふうだったのか。
いい思い出と、逆にあのころ大変だったけれど、いまよくなっていることは何?

 こうしたことを、家族のなかで、〝実感〟として語り継いでみるべきではないのでしょうか。
 これらの話は、単なる事務処理や財産内容を超えた、人生の教訓となります。
 子や孫世代は、親世代の生きざまの歴史を知ることで、ネットにあふれる大量の情報に流されることなく、人生で何を大切にし、何を省略してゆくべきかの判断ができるようになるのではないでしょうか。

 葬儀は、単に遺体処理をする場ではありません。故人が大切にしていた価値観や、生き方を後世に伝えるための儀式です。敬いと思い出話にあふれた葬儀は、参列者にとっても、故人にとっても、人生観を確立するための重要な場となります。

 そうです。子の祖父母からほんとうに語っておいてもらうべきことは、葬儀に呼ぶ人の数や、財産内容という数値や情報ではないのです。

 ほんとうに語らうべきこと ~生きざまのこと~ を抜きにして、財産の話だけを聞き出そうとすれば、「財産を狙っているように思われてしまう」から、切り出せないのです。

「親父の生きざまの、こういうところに感動した。そのすばらしい生きかたを孫世代へ伝えていきたい。だから、子のいない兄さんのところよりも少し多めに相続させてくれないか」

 こんなふうに話してゆけば、相続が〝争い続き(争続=ソウゾク)〟になることを、未然に防げると思いませんか。

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この記事を最後までお読みくださって、ありがとうございます。
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